冠状沟有白色分泌物是什么原因| 9月10号是什么星座| 发现新大陆是什么意思| 匹马棉是什么面料| 脑震荡后眩晕吃什么药| 鸡汤用什么鸡| 厌男症的表现是什么| 吃什么对肺部好| 长生殿讲的是什么故事| 高位破水是什么意思| 肌酸激酶偏低说明什么| 脑血管堵塞吃什么药好| 世界上最软的东西是什么| 什么手机电池最耐用| 什么叫韵母| 病毒性肝炎有什么症状| 幺蛾子是什么意思| 今天是什么日子| 脸水肿是什么原因| 黄芪是什么样子的| 为什么说肺结核是穷人病| 智能电视什么品牌好| 中元节是什么意思| 调戏什么意思| 人为什么要吃肉| 梦见老人死了又活了是什么意思| 6像什么| 土人参长什么样| 怀孕肚子痒是什么原因| 联通查流量发什么短信| 高血压不能吃什么食物| 甘油三酯高有什么危害| 一直发低烧是什么原因| 木加号读什么| 心率过快吃什么药| edd是什么意思| 小孩磨牙是什么原因| 脉数是什么意思| 铁蛋白偏高是什么原因| 龟苓膏的原料是什么| 强迫是什么意思| 法图麦是什么意思| 月球是地球的什么| 7月24是什么星座| 轴向是什么意思| gfr是什么意思| IA是什么| 什么气什么现| 小儿呕吐是什么原因引起的| 7月15是什么节| 腺是什么意思| 空心菜什么人不能吃| 肚脐上面是什么部位| 车代表什么生肖| 鹅口疮是什么样的图片| 吃百家饭是什么意思| 两面性是什么意思| 1969年属鸡是什么命| 什么的小鸡| 吃夏枯草有什么副作用| 尽形寿是什么意思| 心电图诊断窦性心律什么意思| 土豪是什么意思| 权倾朝野是什么意思| 飞机上可以带什么吃的| 伸筋草主治什么病| 反流性食管炎可以吃什么水果| 脚气用什么药最好| 手经常出汗是什么原因| 调岗是什么意思| 放疗化疗有什么区别| 10点半是什么时辰| a-l-岩藻糖苷酶偏高是什么原因| 吃不胖是什么原因| 芳心暗许什么意思| 前胸后背长痘痘是什么原因| 内心丰盈是什么意思| hpv11阳性是什么意思| 脂肪液化是什么意思| 为什么湿气重| sids是什么意思| 梦见鼻子出血是什么意思| 知交是什么意思| 肝火旺吃什么| 女性绝经有什么征兆| 正法是什么意思| 黑鱼是什么鱼| 乔迁是什么意思| 安陵容为什么叫安小鸟| 什么面不能吃| aww是什么意思| 屈原为什么投江| 什么药通便最快| 疖肿挂什么科| 做小月子要注意什么| 尿路感染看什么科| 1997年出生属什么| 柳对什么| 钠低是什么原因造成的| 电磁炉滴滴响不加热是什么原因| 碧玺是什么宝石| 甘蔗什么时候成熟| 体检生化项目查什么| 7月15是什么节| 咸湿佬是什么意思| 小学生什么时候开学| 一个土一个阜念什么| 宰相相当于现在什么官| 什么叫红颜知己| 广义是什么意思| 彩超无回声是什么意思| 孔雀的尾巴有什么作用| 多吃海带有什么好处和坏处| 什么牌子的电动车好| 满字是什么结构| 狮子女喜欢什么样的男生| 二级医院是什么医院| 过劳肥是什么意思| 吃什么爱放屁| 迷津是什么意思| 1月12日什么星座| 和谐是什么意思| 姜子牙是什么神仙| 萎缩性胃炎能吃什么水果| 羊水破了是什么感觉| 中国在什么半球| 附耳是什么| 5月23号是什么星座| 什么情况下打破伤风| 在五行中属什么| 什么样的情况下会怀孕| 冬虫夏草到底是什么| 大麦是什么粮食| 我追呀追呀是什么歌曲| 糖料病者应吃什么好| 复方木尼孜其颗粒治什么病| 宝宝囟门什么时候闭合| 豺狼虎豹为什么豺第一| 什么叫碳水化合物| 2t是什么意思| 人云亦什么| 唐僧是什么生肖| 问号像什么| 邀请的意思是什么| 为什么阴道会放气| 三月份是什么季节| 喜欢一个人是什么感觉| 原子序数等于什么| 四大洋分别是什么| 胃炎吃什么药| 微信为什么加不了好友| 无创低风险是什么意思| 喜鹊叫有什么兆头| 胎位头位是什么意思| 相思成疾是什么意思| 飞机打多了会有什么严重的后果吗| 什么是偏光眼镜| 突破性出血是什么意思| 什么的头发| 动物园里面有什么动物| 女性尿特别黄是什么原因| 阴超是什么| 反应蛋白高是什么原因| 为什么怀孕了还会来月经| 什么是黑色素瘤| 硫酸钠是什么| 什么是变应性鼻炎| 闷骚是什么意思| 头发汗多是什么原因| 不可或缺是什么意思| 音序是什么意思| 色织布是什么面料| 口腔疱疹用什么药| 11月份是什么星座| 头晕脑胀是什么原因| 阴虚内热吃什么药| 莲子有什么作用| 失心是什么字| 等边三角形又叫什么三角形| 咳嗽痰中带血是什么原因| 考试穿什么颜色最吉利| 甲状旁腺分泌什么激素| 为什么胃有灼热感| 凝血功能是什么意思| 什么日子适合搬家| 不知餍足什么意思| 康熙雍正乾隆是什么关系| 脑血管堵塞吃什么药好| 夫妻合葬有什么讲究| 潴留是什么意思| 艾滋有什么症状| 脾胃不好吃什么调理| 拉肚子吃什么药好使| 拘谨是什么意思| 肉沫炒什么好吃| 文曲星是什么神仙| 竹子开花意味着什么| 胯骨在什么位置图片| 孕妇不能吃什么| 私生子是什么意思| 综合体是什么意思| 排气是什么意思| 盐酸是什么| 大圣是什么生肖| 呼吸困难胸闷气短挂什么科| 内热是什么原因引起的怎么调理| 暖心向阳是什么意思| 外阴干裂用什么药| 女朋友生日送什么花| 洪七公什么生肖| 什么的高楼| 兔肉不能和什么一起吃| 逍遥丸治什么病| 郝字五行属什么| max什么意思| 蚊子喜欢什么血型的人| 水金龟属于什么茶| 猫咪呕吐吃什么药可以解决| 上大厕拉出血是什么原因| 痰涎壅盛是什么意思| 孤单的我还是没有改变是什么歌| 1.12是什么星座| 什么是肿瘤| 燕窝什么人不适合吃| clean什么意思| 尿发黄是什么原因| 胃癌吃什么药| 婚检男性检查什么| 血糖高可以喝什么饮料| 强五行属什么| 1964年出生属什么| 心脏早搏是什么原因| 虎鲸为什么对人类友好| 歹人是什么意思| bpo是什么意思啊| 低压低吃什么药| 飞短流长是什么意思| 爱豆是什么意思| 1956属什么生肖| 心脏属于什么组织| 漏斗胸是什么病| 所什么无什么| 属鸡的适合干什么行业最赚钱| 既往史是什么意思| 收获颇丰什么意思| 长沙有什么学校| 什么颜色的衣服显白| 身上泡疹是什么引起的| 在圣是什么生肖| 心电图窦性心律什么意思| 后下药什么时候下| 喝茶心慌的人什么体质| 交际花是什么意思| 淋巴是什么| 臆想症是什么| 福尔马林是什么味道| 什么叫假性发烧| 骶椎腰化什么意思| 查染色体的目的是什么| 粘胶纤维是什么面料| 肚子左边疼是什么原因| 世界上最大的鱼是什么| 什么叫肾阳虚肾阴虚| 米加参念什么| 百度コンテンツにスキップ

【中国证券报】上海钢联:2016年扭亏为盈 营收

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゴート人に福音書を解説するウルフィラ司教
百度 苏辉在致辞时表示,第四届大江论坛秉持习近平总书记倡导的“两岸一家亲、共圆中国梦”重要理念,以“融入乡情亲情,助推和平发展”为主题,旨在团结两岸同胞在交流中增进互信,在合作中深化融合。

ゴート族(ゴートぞく、ゴート語: ????????????????Guttiuda: Gothe(または Gote))は、古代ゲルマン系の民族で、東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の民族。ゴットランドからウクライナに移動した後、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」によってイタリア半島イベリア半島に王国を築いた。ローマ帝国の軍勢と戦い、壊滅的打撃を与えたこともある精強な軍を持った民族である。また、ゲルマン系のなかでは早くからローマ帝国の文化を取り入れて独自のルーン文字を残したほか、ローマ軍に傭兵として雇われるなど、後期のローマ帝国の歴史において大きな役割を担った。

歴史

[編集]

ゴート族の起源

[編集]
紀元前2世紀から2世紀にかけてのゲルマニア(現ドイツ及びポーランド)一帯。
赤はオクシヴィエ文化と初期ヴィェルバルク文化
肌色はその後のヴィェルバルク文化の拡大
黄色とオレンジはプシェヴォルスク文化
オレンジはヴィエルバルク文化がその地方のプシェヴォルスク文化の影響を強く受けた地域
青は非ゴート系大陸ゲルマン人ヤストルフ文化
水色はヤストルフ文化が拡大した地域
紫はヴィェルバルク文化がその地方のヤストルフ文化の影響を強く受けた地域
200年頃のゴート族居住地区(緑部分「チェルニャヒーウ文化」の北部一部地域は「東ゴート族」)。
オレンジはプシェヴォルスク文化を主とする地域。
紫はザルビンツィ文化を主とする地域。
緑はチェルニャヒーウ文化を主とする地域。
ゴート族(Goths)は自らのヴィェルバルク文化をチェルニャヒーウ文化に持ち込んだ。
ゴート族が定住した地域を中心として両文化は混じり合ってキエフ文化英語版に発展し、そこのゴート族はもとのヴィスワ東岸に残っていたいわゆる「西ゴート族」とは政治的にも文化的にも異なる「東ゴート族」となった。

550年頃に、アリウス派僧侶のローマ帝国官僚でゴート人についての歴史家でもあったヨルダネスが、東ゴート王国の学者カッシオドルスの著書を要約して著した史書『ゴート人の事跡』(De origine actibusque Getarum[1]によれば、ゴート族は「スカンディナヴィア島」[注釈 1]を発祥とする民族で、ベーリヒ王(ベーリク)の治世にバルト海を渡り、当時ヴァンダル族ルギイ族英語版、Lugii)が住んでいたゲルマニア(現ドイツ及びポーランド)のヴィスワ川河口域一帯に到達。その土地(現ポーランドのグダニスク一帯の東ポメラニア地方)をゴティスカンツァと呼び、ヴァンダル族の支配地をつぎつぎと平定したと記述されている[3]

ゴート族の起源は19世紀から議論されているが、ヨルダネスの伝えるスカンディナヴィア起原(en:Gothiscandza)は現在では否定的に受け止められている。スカンディナヴィア南部はゴートランド(イェータランド)と呼ばれてはいるが、スカンディナヴィア半島でゴート族と結びつけられる痕跡は、ゲルマニア一帯の住民が遺したストーンサークル(いわゆる「クルガン」)と類似するものがスカンディナヴィアでも発掘されているという程度である。ストーンサークルは、オクシヴィエ文化や初期ヴィェルバルク文化(B1b期?1世紀中期)の墓地では形成されておらず、ゴート族がプシェヴォルスク文化の影響を強く受けるようになった2世紀初期(B2期)から一定期間にのみ認められる。もともとスカンディナヴィアでストーンサークルが発生したというのであれば、オクシヴィエ文化や初期ヴィェルバルク文化の段階から認められなければ矛盾が生じる[4]。また、クラウディオス?プトレマイオスが著した『ゲオグラフィア』(Geographia、地理学)によれば、スカンディナヴィアにゴート族の名称によく似るゴータイ(Goutai)が住むことが確認されるが、『ゲオグラフィア』に記載されている彼らの居留域とストーンサークルの分布は一致しない。このように、スカンディナヴィア起原は考古学的立証が難しく、さらにランゴバルト族のような他のゲルマン系民族にも同じ伝説があることから、単に名前の響きが似た別々の系統の部族だという可能性が高く、ゴート族に関してはスカンディナヴィア起原は疑問視されている。

1世紀末(西暦98年頃)に成立したとされるタキトゥスの『ゲルマニア』には、ヴァンダル族と思われるルギイ族(ルーク族、Lugii)の土地(すなわちプシェヴォルスク文化の領域)より北方にゴート族(ゴートネス)が居留するとの記載が見られ、王制のもとにまとまっていることも知られている[5]。これは南のプシェヴォルスク文化と北のオクシヴィエ文化(および草期ヴィェルバルク文化)の位置関係に合致している[要出典]。ヨルダネスの記述によれば、彼らはガダリックの子、フィリメル王(ベーリッヒ王から数えて5代目の王)の時代にゴティスカンツァを離れ、黒海沿岸部のスキティアにたどりついた[6]。ゴート族のヴィスワ川から黒海一帯への移動については、1945年以降、現ポーランド北部のヴィェルバルク文化と黒海北方のチェルニャヒーウ文化およびキエフ文化英語版が発見され、その歴史をある程度追跡できるようになった。これらのどの文化もゴート族だけのものではないが、ゴート族(およびゲピーダエ族)の文化も装飾品の類似性からそこに含まれていると考えられる。特にヴィエルバルク文化とキエフ文化においては政治的にゴート族が主導的立場にあったと考えられている[要出典]

ヴィェルバルク文化は、ポメラニアからヴィスワ川下流域で1世紀中期にはすでに形成されていた文化で、成立当初は現在のポモージェ県ヴァルミア?マズールィ県西部一帯において見られる。このヴィエルバルク文化は前2世紀ごろ現ポモージェ県で発生したオクシヴィエ文化から発展したもので、このオクシヴィエ文化こそ、この地方の人々がゴート族としてまとまった時代の最初期の文化であると推定される。150年頃、ゲルマニアのヴィスワ川東岸地方では考古学的にこの文化の著しい変化が認められており、ヴィェルバルク文化は元来ヴァンダル族の定住地であったヴィスワ川流域平原のうち、ヴィスワ川東岸一帯を伝って現ポーランド南部に領域を拡大している[要出典]。墓地などの遺跡からは、この東岸地域でゴート族は土地の(プロト?)スラヴ人諸部族を必ずしも排斥せず、武力平定を強調するヨルダネスの記述に反して、両グループは特に争うこともなく混住していたことが明らかになっており、オクシヴィエ文化と東岸プシェヴォルスク文化が融合した結果としてヴィェルバルク文化が形成されたことがうがわれる。これはマルコマンニ戦争においてゴート族とヴァンダル族が同盟していたというローマの記述と一致しており、いっぽうヨルダネスの記述とは矛盾している。

このような動きはその後も1世紀ほど続き、220年頃までには現マゾフシェ県、現ルブリン県、現ポトカルパチェ県一帯と現ウクライナ北部に到達した。この南下に呼応して、ヴァンダル族の文化と考えられるプシェヴォルスク文化も同時期にあたかも競うように南下している。300年頃には両文化とも現ウクライナ南部にまで拡大するが、一方でヴィェルバルク文化のヴィスワ川下流域では出土品の減少から、人口がかなり減少したと考えられ、彼らがポメラニア地方の故地を捨てたことを示している。

この頃、ゴート族によるローマ帝国への最初の攻撃[注釈 2] が知られている。以後、彼らはダキアモエシアに幾度となく侵攻を繰り返し、241年にはマルキアノポリス英語版に現れて保証金をせしめることに成功しているが、皇帝フィリップス?アラブスによって撃退された。しかし、251年ニコポリスを包囲していたゴート族は、撃退にあたったローマ軍を壊滅させると、フィリッポポリスを陥落させ、さらに迎撃にあたった皇帝デキウスアブリットゥスの戦いで敗死させるなど、ローマ帝国を苦しめることもあった。ゴート族の南下と定住は、クラウディウス?ゴティクス帝とのナイススの戦いでの大敗と271年アウレリアヌス帝ダキア属州を割譲することによって停止するが、それまでに黒海東岸のピテュース英語版古代ギリシア語: Πιτυο??)、トラペズスビザンティウムニコメディアエフェソステッサロニキロドス島キプロス島などの諸都市を攻撃している[7]

これらのことから、ゴート族が現ポーランド、ポモージェ県でオクシヴィエ文化により発生して、プシェヴォルスク文化のヴィスワ川東岸地方の土地の文化の影響を受けながらヴィェルバルク文化の段階に発展しつつ黒海沿岸部へ移動し、当地でチェルニャヒーウ文化の影響を受けてキエフ文化英語版の段階へ移行したことは、ほぼ確実である。しかし、ヨルダネスの記述にあるように一王の世代で成されたものではなく、また、各文化それぞれの特質から見られるように、ゴート族の大移動は、ゴート族のほかスラヴ人の部族やサルマタイ人の部族などいくつかの部族が融合して行われたものらしい。なぜ彼らが移動したのかという理由については確定していないが、東ポメラニア地方という、大半が砂地で土地が肥沃でない一帯に発展したオクシヴィエ文化時代からその主な生業が土地に根付いた産業であるところの農業ではなく、遠方へ出かけて交易を行い食料や生活必需品を手に入れてくる商取引であったことから、南下したほうが黒海沿岸の経済的に豊かな地方との交易に有利だという考えがあったことが第一に推測される。

ゴート族の勢力確立

[編集]

チェルニャヒーウ文化は、4世紀カルパティア山脈東部から黒海北方において見られる文化である。一部の墓地からヴィェルバルク文化で発見されたものとほとんど同じ装飾品が出土している。スラヴ人の埋葬形式の特徴とそのほかの人々が一般的に行なっていた埋葬形式の特徴とが併存していること、特に副葬品に武器が見当たらないことなども共通する。チェルニャヒーウ文化は一部でヴィェルバルク文化と互いに影響し混合したと考えられ、その地域はキエフ文化英語版に発展している。チェルニャヒーウ文化にも、そのゴート的な色彩を持つ一形態と言えるキエフ文化にもローマやギリシアの文化からの影響が見られる。ただし、ヴィェルバルク文化の担い手全てが一群となって黒海まで移動したわけではなく、あくまで黒海沿岸部まで移動してきたグループのみが、キエフ文化の発展に影響したらしい。キエフ文化の中心的な地域について、ヨルダネスは、ゴート族のとある部族の長である人物フィリメル英語版によって小規模なゴート族国家オイウム王国(Gothic kingdom of Oium)が成立したとしている。実際にこのキエフ文化の地域がゴート族の黒海沿岸地方進出の足掛かりになっている。

チェルニャヒーウ文化はもともと大規模な穀物栽培を中心とした農耕と、河川を運搬手段として用いた農産物輸出を主体していたが、黒海北方は原スラヴ人である農耕スキタイチェルノレス文化の時代からスキタイ人やギリシア人へ同じようにさかんに穀物を輸出していた大穀倉地帯であり、チェルノーゼム(黒土)が広がる肥沃な土地であった。良質な陶器が作成されており、ローマ帝国と大規模な商取引も行っていた。遺跡からは、ローマの貨幣が大量に見つかることもあるうえ、ローマから輸入された品も見つかっている。チェルニャヒーウ文化文化はスラヴ人サルマタイ人の混合文化と考えられ、ゴート族固有のものではない。遠方からやってきて異質な文化を持つゴート族はその中でも独特の存在だったことは確実で、ローマ帝国に近く、ゴート族南下の道筋にあたる西部では、ギリシア文字ラテン文字に影響を受けて独自のルーン文字ゴート語)を完成させ、340年頃には司教ウルフィラによってゴート語訳聖書が著されている。

ヨルダネスによれば、カルパティア山脈からドン川に至る南ロシア一帯に居留したゴート族は、エルマナリク王の代に王国を築いた。エルマナリクは、後に東ゴート王国を興すアマル家の祖と言われているが、この当時のゴート族の王国については、記録が少ないために判然としない。ただ、ローマ帝国のような国家機構があったわけでも、国境というものの意識もなかったようである。ヨルダネスによれば、このときすでにドニエストル川からドン川の平原を占有していたグルツンギ?アウストロゴティとカルパティア山脈からドニエプル川一帯にかけて居留したテルヴィンギ?ウィシゴティに分裂していたことがうかがえる。それぞれ東ゴート族、西ゴート族とされるが、これらが直接的に後の東ゴート王国西ゴート王国を打ち立てたグループに分かれたわけではないようである。例えば、詩人クラウディアヌスはフリギアに侵入したゴート族について、「グルツンギを含んだ東ゴート族」と説明し、グルツンギと東ゴート族をはっきり違うものと認識している。

4世紀までに確認されるゴート族は、西ゴート系として3グループ[注釈 3]、東ゴート系として2グループ[注釈 4]、所属不明なものとして7グループ[注釈 5]、つまり12の勢力が確認される[要出典]

このうちテルヴィンギ?ウィシゴティとして2つのグループが糾合し、その他はグルツンギ?アウストロゴティとして、ゴート族以外の民も含め、エルマナリクを王とするゆる連合勢力を形成していたと考えられる。ただし、エルマナリクは、ヨルダネスが述べているような全ゴート族の王、というわけではない。考古学的には、チャルニャコヴォ文化には、少なくとも6つの大きな集落が発掘されており、それぞれに王ないしはそれに近い権力者がいたと考えられる。エルマナリクはその幾つかの集団の中で特に強力な人物であったか、あるいは実際にかなりの集団を制していたのかも知れない[要出典]

フン族の襲来

[編集]
各部族によるローマ帝国への侵入要図

マルケリヌスによれば、東方から襲来したフン族は、370年前後にカスピ海からドン川に至る地域に住んでいたアラニ族を破り、東ゴート族の支配領域(en:Greuthungi)に到達した[8]バラミール英語版(Balamir、在位: 360年 - 378年 (?))[注釈 6]と呼ばれる王に率いられた[9]フン族の襲来によって、東ゴートの王エルマナリクは自殺してしまったとされる[10][11]376年に東ゴートの王権(en:Greuthungi)をエルマナリクから継いだヴィティミール英語版 (Vithimiris) は、兵士を再編成してフン族の先鋒となったアラニ族に抵抗したが、エラク川のほとりで敗死。彼の遺児ウィデリック (Viderichus) はバラミールに屈服し[10][12]、東ゴート族は大部分がフン族の勢力に併合された[10][13]

フン族による東ゴート族への攻撃は、チェルニャヒーウ文化、とくにそのうちの一形態であるキエフ文化英語版の痕跡に見ることができる。その侵略は凄まじく、建物はほとんどが火に焼かれており、以後、社会生活が一掃されているところを見ると、土着民族を徹底的に殺戮もしくは奴隷化したと考えられる[14]彼らが通ったあとに残ったキエフ文化の町はまったくないと言って良い状況であり、[要出典]これについては5世紀初期の歴史家エウナピオスも、ゴート族はフン族に死滅させられ、残ったものも類のない残虐な方法で処刑されたと述べている[14]

東ゴート族の瓦解を目の当たりにした西ゴート族の王アタナリック英語版は、民族を西方に移動させることを決意した。西ゴート族は2つの勢力に分かれ、一部はフリティゲルン英語版アラヴィヴス英語版に率いられてローマ帝国の庇護を求めるためにドナウ川国境線に向かった。他方、アタナリックに率いられた西ゴート族はトランシルヴァニアに後退するためドニエストル川の陣営に駐屯した。彼はフン族哨戒のためにムンデリック率いる分遣隊をドニエストル川東部に派遣させたが、フン族はこれを包囲するとともに、アタナリック率いる本隊を攻撃し、これを崩壊させた。このため、アタナリック指揮下の西ゴート族も多くがローマ帝国領内へ避難するため国境線のドナウ川に避難した[15]

フン族によって西方に追いやられた西ゴート族は、376年、ローマ帝国の北東の国境線であるドナウ川を渡り、ローマの保護を求めた。西ゴート族はフリティゲルンの勢力に組み込まれ、2年にわたってローマ領(バルカン半島北部)に居留したが[16]、ローマ帝国のゴート族の扱いはひどいものであったため、ゴート族は反乱を起こした(ゴート戦争)。378年8月9日、ゴート族はハドリアノポリス近郊でローマ帝国の正帝ウァレンスを破って殺害(ハドリアノポリスの戦い)し[16][17]、さらにこのときローマ兵の3分の2を殺害した[17]テミスティウス英語版はこれについて「ローマ軍は影の如く消えた」と述べている。この戦いの後、東西ローマ帝国は蛮族の侵入や反乱に悩まされた。カッパドキアの教会史家フィロストルギオス英語版アルメニアの歴史家バル?ヘブラエウスen[要出典]が、侵入したフン族によってシリアキリキアが壊滅したことを述べている。また、彼らの侵略は、サーサーン朝ペルシャ領内のほか、パレスティナエジプト一帯にも及んだようである。[要出典]

しかし、異民族の侵入に悩まされていた東西ローマ帝国は、フン族の傭兵を積極的に雇い入れ、反乱や他民族の鎮圧にあたった。これはある程度の成功を収めており、東ローマ帝国の執政官ルフィヌス英語版や軍司令官スティリコは、彼らを身辺警護に使ったほか、蛮族を排除する軍隊として動員した。ローマ帝国と不安定ながら良好な関係を形成したフン族は、410年頃までにドナウ川中流部にまで勢力圏を拡大させた。このため、これに押し出されるかたちで西ゴート族も西に移動し、ドナウ川を渡ってアルプスを越え、イタリア半島に侵入した。

アラリック1世率いる西ゴート族は、401年、イタリアの西ローマ帝国軍と戦い、ヴァンダル族出身の将軍スティリコに敗れる。406年(異説あり)、アラリック1世配下のラダガイス英語版率いる西ゴート族の一派が再びイタリアに侵入し、8月23日フィレンツェ近郊のフィエーゾレ付近で、スティリコに仕えたフン族の王ウルディンに殲滅させられている(フィエーゾレの戦い (5世紀))。408年11月にも、今度はアタウルフ率いる西ゴート族が侵入、西ローマ帝国の首相オリンピウスフランス語版率いるフン族混成部隊に敗れた。とはいえ、このような度重なるゲルマン民族の侵入により西ローマ帝国は弱体化、さらに将軍スティリコが謀殺されたため、410年、遂にアラリック1世はローマにまで進軍し、これを陥落させた(ローマ略奪)。

この動きによって、ドナウ川のローマ守備隊は手薄になり、ブルグント族アレマン族スエビ族など、他のゲルマン人も、フン族の支配を逃れて一斉にドナウ川を渡り始めた。

後世でのゴート族

[編集]

ゴートに纏わる言葉として、「野蛮な」という意味で用いられ始めた「ゴシック(ゴート風の)」がある。

16-17世紀のスウェーデンではゴート族は自国を出自とする民族であるという伝説ゴート起源説」が盛んに唱えられ、そのゴート族(ヴァンダル族を含む)がヨーロッパアジアアフリカを支配し、スウェーデン人がゴート族の末裔であるという俗説が捏造された。この俗説は17世紀のスウェーデンによる三十年戦争介入の動機となった。

なお、イェーテボリはギート族の作った町であり、ギート族はゴート族と名称が似ており、互いに交易はあったようではあるが出自から言えば無関係の部族である。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ スカンディナヴィア半島は10世紀まで島であると考えられていた[2]スカンディナヴィア南部は、特にゴートランド(イェータランド)と呼ばれる。
  2. ^ 238年ドナウ川河口に位置するヒストリアに対するもの。
  3. ^ この3グループは1.テルヴィンギ?ウィシゴティの大部分 2.エルマナリク王配下のグルツンギ?アウストロゴティ 3.イタリアに遠征し、西ローマ帝国の将軍スティリコに撃破されたラダガイス率いる一派である[要出典]
  4. ^ このグループは、1.アマル家を王とするグルツンギ?アウストロゴティ 2.テオデリック?ストラボ率いるゴート族である。
  5. ^ はっきりしている集団として、1.記録によれば377年イリリキウムを攻撃して敗死したフラノビウス率いるグルツンギ?アウストロゴティ 2.記録によれば386年にドナウ川を渡ったオドテウス率いるグルツンギ?アウストロゴティ 3.ビゲリス率いるゴート族 4.デンギジック率いるゴート族 5.クリメア率いるゴート族 6.アゾフ海のゴート族 7. アリメル率いるゴート族[要出典]
  6. ^ ヨルダネスによる[9]ヴァラミール英語版(Valamir、在位: 447年 - 465年)と混同されやすい。

出典

[編集]
  1. ^ 『De rebus Geticis』も参照
  2. ^ シュライバー,岡ら訳 1979, p. 12.
  3. ^ ヨルダネス『De rebus Geticis』III.25-26。
  4. ^ Heather 1991, p. 25.
  5. ^ タキトゥス,泉井訳 1979, pp. 219-210.
  6. ^ Jordanes『De rebus Geticis』III.26-27。
  7. ^ Heather 1991, pp. 41-42.
  8. ^ アンビス,安斎訳 1979, pp. 38-40.
  9. ^ a b アンビス,安斎訳 1979, p. 40.
  10. ^ a b c アンビス,安斎訳 1979, p. 41.
  11. ^ シュライバー,岡ら訳 1979, p. 66.
  12. ^ シュライバー,岡ら訳 1979, p. 69.
  13. ^ 松谷 2003, p. 34.
  14. ^ a b アンビス,安斎訳 1979, pp. 43-44.
  15. ^ アンビス,安斎訳 1979, p. 42.
  16. ^ a b 尚樹 1999, pp. 67-68.
  17. ^ a b 松谷 2003, p. 35.

参考文献

[編集]
  • アンビス, ルイ『アッチラとフン族』安斎和雄訳、白水社文庫クセジュ 536〉、1979年。ISBN 978-4-560-05536-6 
  • シュライバー, ヘルマン『ゴート族 - ゲルマン民族大移動の原点』岡淳、永井潤子、中田健一訳、佑学社、1979年12月。ISBN 978-4-8416-0611-9 
  • 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年2月。ISBN 978-4-486-01431-7 
  • タキトゥスゲルマーニア泉井久之助訳、岩波書店岩波文庫〉、1979年4月。ISBN 978-4-00-334081-3 
  • Heather, Peter (1991). The Goths. Blackwell Publishers 
  • 松谷健二『東ゴート興亡史 - 東西ローマのはざまにて』中央公論新社中公文庫BIBLIO〉、2003年4月(原著1994年)。ISBN 978-4-12-204199-8 

関連項目

[編集]
肛门痒用什么药 地支是什么意思 远视眼是什么意思 晚上10点是什么时辰 痛风吃什么水果最好
肠粉为什么叫肠粉 红豆生南国什么意思 脚麻挂什么科 脚底起泡是什么原因 新西兰用什么货币
雨后的彩虹像什么 盆腔静脉石是什么意思 冬虫夏草有什么用 近亲结婚有什么危害 银行卡销户是什么意思
猫咪喜欢什么颜色 红斑狼疮吃什么药最好 伤口愈合为什么会痒 放疗化疗有什么区别 牛角尖是什么意思
kallas是什么牌子xjhesheng.com 日晡潮热是什么意思96micro.com 弥勒佛为什么是未来佛hcv8jop7ns4r.cn 强痛定又叫什么hcv9jop6ns2r.cn 肌肉酸痛是什么原因hcv9jop6ns5r.cn
子宫收缩是什么感觉luyiluode.com 吃钙片有什么好处hcv8jop6ns6r.cn 男性阴囊潮湿是什么病hcv8jop9ns0r.cn 喜悦之情溢于言表什么意思hcv8jop4ns2r.cn 娇气是什么意思hcv8jop6ns5r.cn
脚趾缝痒溃烂用什么药hcv8jop2ns2r.cn 樱桃是什么季节的水果huizhijixie.com 助产士一般什么学历hcv7jop6ns7r.cn 男人跑马是什么意思jinxinzhichuang.com 龟头责是什么意思hcv7jop7ns2r.cn
梦见自己掉头发是什么意思hcv7jop4ns6r.cn 加速度是什么意思hcv8jop8ns1r.cn 呆板是什么意思hcv7jop6ns4r.cn 洋葱什么时候种hcv8jop4ns9r.cn 热射病是什么病hcv9jop0ns3r.cn
百度